大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 昭和54年(あ)1358号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人飯田孝朗、同水島正明の上告趣意第一の一ないし四は、刑法一七五条は性に関する表現行為を不当に制限するものであるなどとして、同条が憲法二一条、一三条、一九条、三一条に違反するというが、その理由のないことは、わいせつ文書の出版を刑法一七五条で処罰しても憲法二一条に違反しないとする当裁判所大法廷判例(昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、同三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)の趣旨に徴し明らかであり、同第一の五は、わいせつの概念が不明確であるとして刑法一七五条が憲法三一条に違反するというが、刑法一七五条の構成要件は、所論のように不明確であるということはできないから、所論は前提を欠き、同第一の六はいわゆるハード・コア・ポルノでない本件写真誌のようなものの出版について同条を適用するのは、憲法の前記各法条で保障された国民の諸権利を侵害するものとして違憲であるというが、その理由のないことは、前掲各大法廷判例の趣旨に徴し明らかなところであり、その余の上告趣意は、憲法三七条、三一条違反をいう点を含め、その実質はすべて単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

なお、本件各写真誌は、絡み合う男女の裸体写真を、その性器及び周辺部分を黒く塗りつぶして修正のうえ印刷・掲載したものであつて、いわゆるハード・コア・ポルノということはできないが、修正の範囲が狭くかつ不十分で現実の性交等の状況を詳細、露骨かつ具体的に伝える写真を随所に多数含み、しかも、物語性や芸術性・思想性など性的刺激を緩和させる要素は全く見当らず、全体として、もつぱら見る者の好色的興味にうつたえるものであると認められるから(最高裁昭和五四年(あ)第九九八号同五五年一一月二八日第二小法廷判決・刑集三四巻六号四三三頁参照)、これを刑法一七五条にいう「猥褻ノ図画」にあたると認めた原判断は、正当である。

よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

法廷意見は、当裁判所大法廷の判例(最高裁昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁等)の趣旨にしたがつて、刑法一七五条の規定が憲法三一条、二一条に違反するものではないと判示し、また、本件各写真誌が刑法一七五条にいう「猥褻ノ図画」にあたると認め、原審の判断を正当であるとして本件上告を棄却している。私もまた、所論に理由がなく、上告を棄却すべきものとすることに異論はないが、この機会に、同条と憲法二一条との関係に限つて、いささか私の見解を補足しておきたい。

一前記の当裁判所大法廷の判例によると、刑法一七五条にいう「猥褻」とは、「徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」を意味するとされる。そして、このように定義された「猥褻」の概念によれば、刑法一七五条の定める「猥褻」の文書図画の頒布等の罪の構成要件は不明確なものといえないから、憲法三一条に反しないものであり(最高裁昭和五三年(あ)第一〇八四号同五四年一一月一九日第二小法廷決定・刑集三三巻七号七五四頁参照)、また「猥褻」にあたる文書図画の頒布等を処罰することは、表現の自由に対する公共の福祉による制限であつて憲法二一条に違反するものではないとされている(前記大法廷判決参照)。

右にあげた「猥褻」の定義は、当裁判所が一貫して採用しているところであり、抽象的な定義づけとしては必ずしも是認できないものではない。しかし、その定義のみをもつては、具体的事案に適用される場合に、「猥褻」の概念がなお十分の明確性をもつているとは考えられず、かつその抑止する範囲が広きに失するおそれがあると思われる。とくに表現の自由を法的に制限する場合には、法的規制をうける範囲について通常の場合に比していつそう強度の明確性が要求されると解するのが相当である(規制の範囲の明確さを欠く法令によつて表現の自由が制限されるときには、いわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、憲法上保護されるべき表現をも抑圧する危険の大きいことはしばしば指摘されるところである。)。したがつて、大法廷判例の示す定義は、定義としてそれを承認できるとしてもその定義に該当するかどうかついての判断基準をいつそう具体化して、「猥褻」にあたる範囲を明確にすることが必要である。当裁判所は、右の定義を前提にしつつも、文書の「猥褻」性を判断するにあたつて考慮すべき多くの点のあることを明らかにしているが(最高裁昭和五四年(あ)第九九八号同五五年一一月二八日第二小法廷判決・刑集三四巻六号四三三頁参照)、この考え方は、憲法の要請に即して「猥褻」の文書の頒布等の罪が適用される場合を明確にしようとする趣旨をもつものであつて、図画の「猥褻」性の判断にも当然に妥当するというべきである。本件の法廷意見もこれと同じ見解を採用するものと思われる。

二私は、文書図画が「猥褻」の概念に該当するかどうかが問題とされる場合において、いわゆるハード・コア・ポルノと、それにはあたらないが、「猥褻」的要素のつよいもの(以下「準ハード・コア・ポルノ」という。)とを区別して考えるのが適当であると考える。

この区別をするときには、まず何がハード・コア・ポルノにあたるかが問題になる。この点は、普通人が直接にその文書図画に接して常識的に判断すれば足りるとも考えられるが、あえて定義をするとすれば、性器または性交を具体的に露骨かつ詳細な方法で描写叙述し、その文書図画を全体としてみたときにその支配的効果がもつぱら受け手の好色的興味に感覚的官能的に訴えるものであつて、その時代の社会通念によつていやらしいと評価されるものがそれにあたるということができる。このようなハード・コア・ポルノは、特定の思想や意見を伝達するものとはいえず、社会的価値を欠いているか、または法的に評価できる価値をほとんどもつものではないと思われる。したがつて、およそあらゆる表現について禁止されていると解される検閲は、このようなハード・コア・ポルノに対しても排除されるけれども、事後の処罰や制裁については、それは憲法二一条一項の保護の範囲外にあり、これに法的規制を加えることがあつても、表現の自由に関する憲法的保障の問題は生じないと考えられるから、これの頒布等の行為を処罰の対象とする刑法一七五条の規定は違憲ではなく、その法令違憲を主張する所論は採用することができない(もとよりその規定が立法政策として妥当かどうかは別に考えるべきことである。なお、ハード・コア・ポルノについても、それを自らの利用のために単に所持することにまで法的規制を及ぼすときには、個人のプライバシーの面から問題を生ずる可能性があるが、それは刑法一七五条とは別の問題である。)。

「猥褻」の文書図画の頒布等の罪をめぐつて困難な問題を生ずるのは、準ハード・コア・ポルノである。何をもつて準ハード・コア・ポルノと定義するかは、ハード・コア・ポルノの場合以上に困難であるが、性器または性交の直接の具体的描写ではないが、その描写から容易に性器や性交を連想させ、その支配的効果がもつぱら又は主として好色的興味をそそるものであつて、社会通念に照らして、ハード・コア・ポルノに準ずるいやらしさをもつ文書図画がそれにあたるということができよう。これらの文書図画のうちには、芸術性や思想性の要素を含み、ある程度の社会的価値をもつものがありうるから、それらは憲法上の表現の自由の保障の範囲外であるということはできない。そこで、準ハード・コア・ポルノを「猥褻」にあたるとして刑法一七五条を適用することになると、適用違憲の問題を生ずる余地がある。そして、この準ハード・コア・ポルノの範囲が必ずしも明確でないだけに、「猥褻」の概念そのものをあいまいにするおそれがあり、そのために表現の自由の行使に萎縮的効果を及ぼし、広く表現の自由を抑圧する道を開くことにもなりうるとともに、また、違反の摘発に公平を欠くことが避けられず、法の権威を損う結果ともなる。このような点からすると、刑法上規制の対象となる「猥褻ノ文書、図画」をハード・コア・ポルノに限定し、それ以外のものを刑事上の処罰から解放するという見解には一理あることを否定し難いが、他方、準ハード・コア・ポルノの中にも、性的刺激の程度においてハード・コア・ポルノとさしたる径庭がなく、しかも、見るべき社会的価値を有しないものも存在するのであるから、準ハード・コア・ポルノを一律に刑法の規制の対象外とするのは、やはり疑問であるというべきであろう。しかしながら、準ハード・コア・ポルノを刑法の規制の対象とするときは、前記のとおり、憲法で保障された表現の自由との抵触の問題を生じうるのであるから、ある性表現物が「猥褻ノ文書、図画」にあたるかどうかの判断にあたつては、当該性表現によつてもたらされる害悪の程度と右作品の有する社会的価値との利益較量が不可欠となるわけである。

そして、右の利益較量にあたつては、とくに、次の二点に注意をする必要がある。その第一点は、当該作品が単に娯楽的価値を有するにすぎない場合はともかく、それが、政治的言論を含んでいたり、学問的・芸術的価値を有する場合には、右の利益較量がとくに慎重になされるべきであるということである。政治的言論の自由や学問・芸術上の表現の自由は、憲法二一条の保障のまさに核心をなすものであつて、憲法上最大限の尊重を必要とするものであるから、いやしくも「猥褻」の取締りに名を藉りて、政治的言論や学問・芸術上の表現の自由に対する不当な抑圧を是認するようなことは、許されないというべきである。その第二点は、「猥褻性」(とくに、当該性表現の「いやらしさ」)の判断の前提となる社会通念の把え方の問題である。ここにいう社会通念は、その社会における広い意味での文化的な歴史や伝統を背景にして育てられた構成員の意識や感情に基礎をおくものであつて、必ずしも普遍的なものでないから、外国における実情ではなく、わが国の社会の実態に即して考えなければならない。しかし、その場合も、それを固定的に把えないことが必要であると思われる。裁判所が硬直した社会通念をたてにとり、抽象的な性行為非公然の原則にもとづいて社会を道徳的頽廃から救うという態度をとることは適当でなく、むしろ社会の実態が流動的であることを認め、普通人がこのような性表現に接してことさら刺激をうけなくなる馴れの現象や、通常人においてそのような表現が社会に広く提供されている事実を(積極的であるにせよ消極的であるにせよ)うけいれている状況、さらには取締り当局がこのような社会の状況に応じて準ハード・コア・ポルノの流通を放任している事情などを考慮することが求められよう。このような社会の現実を直視することなしには、刑法一七五条と憲法二一条との妥当な調和を図ることは不可能であると考える。

三ところで、本件写真誌は、もともとはハード・コア・ポルノに属する原版に修正を施したものを印刷・掲載した図画であり、社会的価値の稀薄なハード・コア・ポルノにあたるというべきである。これらの写真誌は、以上にのべたように社会通念を可変的なものとしてとらえ、わが国の現在の社会の実態に照らしてみるとき、もはや刑法一七五条にいう「猥褻ノ図画」にあたらないという判断もありえないわけではない。しかし、法廷意見の説示するように、それらは、性交等の状況を詳細、露骨かつ具体的に伝える写真を多数収載しており、問題となる部分を黒色でぬりつぶして修正をしているとはいえ、その修正の範囲は必ずしも十分ではなく、他方、それが憲法上とくに尊重されるべき政治的・学問的・芸術的表現を包含するものでないことも明らかである。したがつて、少なくともわが国の現在の社会通念を前提とする限り、これが刑法一七五条の処罰の対象とされる「猥褻ノ図画」にあたるものとした原審の判断は、これを是認することができないわけではない。原判決に所論の違法があるとはいえず、その結論は結局正当として支持することができると思われる。

(伊藤正己 横井大三 木戸口久治 安岡滿彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例